あてねふらんせ


アテネ・フランセでのストローブ=ユイレのレトロスペクティブが終わる。結局全部見てしまった。(初体験)
彼らの映画作りは確かに唯一無二であり、強い倫理観に支えられた他を寄せ付けない美しさを持っているし、
その映画に対する姿勢に何かを学ばなければならない(そして学べるものは驚くほどたくさんある)と思う。
が、欧州の言語を解さないものにとって、彼らの言語へのこだわり、詩の美しさ、朗読の持つ意味、というものは、
ほとんど理解することができないように感じる。(それともただ単に自分の感性が驚くほど鈍感になっているだけなのだろうか)
具体的にいえば「エンペドクレスの死」に始まるヘルダーリン三部作だが、あの映画に映っている光の美しさは自分にも十分感じることができるのだけれど、
展開されているテキストを追おうとした瞬間に、頭の中で何かが切れて、まったくついていけなくなる。
特に「エンペドクレスの死」。物語といえるほどの物語がなく、かつ上映時間も長く、朗読量も多い。
「労働者たち、農民たち」(僕はこの映画が大好きだ;
ただし、彼らの映画の中でもっとも好きなのは、ほかを大きく引き離して「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」なのだが)
の場合は、テキストが、詩としての美しさ(発される言語の表面上の論理)よりも物語としての強さをより多く持っているがために、
俳優たちの朗読によって徐々に物語が立ち上がっていき、その過程が快感であり強い驚きとともに映画が進んでいくのだが、
「エンペドクレス」の場合は、その言語の表面の流れを追えないがために、時間が進めば進むほど不快感だけが募っていく。
(これがもっと短ければ、まだ美しさに浸ったまま映画を観終えることができるのかもしれない・・・ただ、「黒い罪」(40分)でも、私には十分長かった)
「フォルティーニ/シナイの犬たち」も、同じような理由で、一時間を越えたあたりからまったく頭がついていかなくなった。
「歴史の授業」「セザンヌ」「早すぎる、遅すぎる」といったあたりは、無条件で受け入れられその美しさに浸れたのだが。
(これらの映画は映画史の中でもある種の極北を担っていると思う)
シチリア!」「アメリカ(階級関係)」の素晴らしさはいうまでもない。
しかし彼らはよくこれだけ多種多様な映画を作れるものだと思う。
一作一作がまったく違った意味をもって自分の映画体験の歴史に迫ってくる。