老人

祖母の話を聞いていたらいつのまにか午前三時なんていう時間になっていた。
寝るのも何なので溜まっていたメールを書いたりして夜明けを待つ。


ヴィスコンティ映画祭続き。
「揺れる大地」「ベニスに死す」「家族の肖像」と見てきました。
映画祭自体は明日まで(もう今日か)あるのだけれど、
自分にとってはこれで終わり。毎日毎日日比谷まで通う生活もお終いである。
(しかし今日の夜にはまたユーロスペースキアロスタミの「ABCアフリカ」を見に行かねばならない・・・生活の全てが映画に傾いている。)
(ちなみに、今年のヴィスコンティはこの映画祭で終わりというわけではなくて、10月23日より新宿テアトルタイムズスクエアでデジタルリマスターされた「山猫」が上映されます。)


「揺れる大地」
ヴィスコンティの監督二作目だが、やはり優れた映画である。
初期のネオレアリズモの凄さというのは、「映画をスタジオから解放した」ということにあるのではなくて、
「スタジオで撮る時と同じ視線を使って屋外・現実を撮った」ということにあるのではないかと思う。
ネオレアリズモ以降、ロケ撮影は一般的なものとなるのだが、
そうやって撮影された映画がネオレアリズモの作品にフィルム的緊張感の点で遠く及ばないのは、
そもそも新しい世代の人々はスタジオ撮影の視線を知らないから、なのだ。
それと同じことはサイレントからトーキーに移った人とはじめからトーキーで撮っていた人の間にも言えて、
やはり小津(サイレント映画を身をもって知っている監督)と黒澤(知らない監督)では持っている視線が全く違うがために、
映画が発する緊張の度合いも全く違うものになる。(もちろん前者の方が優れている。)


「家族の肖像」
この映画を見てやっと、ヴィスコンティの映画の持つリズム、というのが理解できた気がする。
つまるところ、彼の映画は「頽廃」そのものなのだ。
これは、巷でよく言われるように、彼が「頽廃美を描く監督」であるということではない。
そうではなくて、彼の映画が持つ運動、フィルムの流れ、というのが、どうしようもなく「頽廃」しているのだ。
頽廃し、弛緩しきっているのだ。
それでいながら、いや、むしろそれだからこそ、彼は「優れた映画作家」であり、
彼の撮った映画はやはり優れているのである。
頽廃したフィルム運動。いたるところで表れる凡庸なズーム・アップ、ズーム・バックの使用。
緊張感のかけらもないカット・バック。
しかしそのような「停滞」があるからこそ、我々はヴィスコンティの映画を愛してしまうのである。
その「どうしようもなさ」を、愛さずにはいられないのだ。
そしてそれこそが、ヴィスコンティが「呪われた」映画作家と言われる所以である。
映画のラスト近くで表れる説明的なシーンは少し冗長に感じたが、
それ以外のところは全て、何か不思議な感覚、優しい泡のような感触に包まれていた。
見ていてとても穏やかな気持ちになる映画だった。


「ベニスに死す」
「家族の肖像」を見た後だったので、そしてまたこの映画があのどうしようもない頽廃を持つ
地獄に堕ちた勇者ども」「ルードヴィヒ」の間に作られた映画だったので、
これもまた頽廃に包まれた映画なのかと思ってみたのだが、
どうしてどうして、またこれが普通に良い映画なのである。
とにかく、マーラー交響曲が鳴っている場面は全て素晴らしい。恐ろしく強い緊張感がある。
冒頭など、船が煙を吐きながら近づいてくるただそれだけのシーンなのに、
それだけで涙が出そうになるぐらいだ。
それ以外の部分では、確かにあの凡庸なズームがところどころ見受けられるけれど、
台詞をかなり削ってあるのが功を奏しているのか、
映画的な破綻、あのどうしようもなさ、がない。
公開当時、ヴィスコンティブームを巻き起こすぐらいに流行ったらしいが、
たしかにこれは誰が見てもわかる、つまり一般にウケる映画だろう。
(・・・しかし同時に、この映画を見た後に他のヴィスコンティ映画を見た観客が、
 激しく落胆するだろう、というのも容易に想像が付く。
 実際、ブームが起こったのにもかかわらずその後のヴィスコンティ映画は長い間放置されていたらしい。)


またジルベルトを書き損ねた。次には書こう。