イラン・中国・ポルトガル

今、映画的に最も勢いを持っている国がおそらく上の3国だろう。


近頃、シャワーだけで済ますことが多かったので、今日おそらく10月に入ってから初めて湯船に入った。
習慣というのは気持ち悪い。いつのまにか浸食されている。


アッバス・キアロスタミ「ABCアフリカ」


この人は、なんでこんなに革新的なことをここまで自然にこなしてしまえるのだろう。
真にその芸術を良く知るものに、ジャンル・カテゴリは通じない、というが、
これはその格言の最も良い例である。
この映画はドキュメンタリーではなく、劇映画でもない。しかし同時にドキュメンタリーであり、劇映画である。
つまりこれはもはや「映画」としか呼びようのないものであり、
キアロスタミは全身が既に映画そのものなのだ。
だから彼の撮る映画にあれだけの魔術性が秘められているのだろう。
彼の切り開いた道は大きい。どれだけの作家がそれを模倣できるかはわからないが、
彼の作品は間違いなく、これからのひとつの基準点になるだろう。
(それはペドロ・コスタも同じだろうが)
途中、数分間に渡って画面が真っ暗になるショットがある。
そんなものを平気で「映画」の中に組み込み、
それどころかそれをこの映画で最も感動的なシーンのひとつにしてしまう事さえ平然とのけてしまう。
「何をしても映画になる」というのは、ユスターシュよりも、キアロスタミにこそ冠されるべき言葉だろう。


しかしこの映画もそうだし、王兵ワン・ビン)の「鉄西区」、ジャ・ジャンクーの「イン・パブリック」などもそうだが、
デジタルビデオカメラにはまだまだいくらでも可能性が秘められている。
ペドロ・コスタも常にデジタルビデオカメラを持ち歩いているというし、
(先日の蓮実先生のトークショーで見せられた、ペドロ・コスタデジタルカメラで何の気なしに新幹線から外を撮った数秒間のショット。あの躍動感。強度。それが全てを物語っている。)
これからもデジタルカメラを使った優れた映画が排出し続けるだろう。
これはある意味ではサイレントがトーキーになったときと同じぐらいの変革を与えるかもしれない。
まだまだ映画は死んでいない。
(ちなみに、パンフレットのインタビューによると、キアロスタミ監督はよほどデジタルカメラが気に入ったらしく、しばらくは35mmの世界には戻らないだろう、と言っていた。)


ジルベルトのことを書くのががのばしのばしになっている。
書きたいことは決まっているのだがそれをカタチにするのには時間が必要だ。
そういう意味で、カタチにしたものこそが、やはり「為したこと」となるのだろう。
後世に残る、残らないということには関係なく、カタチをとったものだけが、具体的な力を持つ。
そしてカタチをとらないものは「存在し得ない」のだ。