ひととせ

自分の中で、「一年」というのは、いろいろな意味でひとつの区切りになっている、と、感じた。
考えてみればここ数年、具体的に言うと高校二年生以降、
一年一年が全く違った重みと全く違った意味を持って過ぎていっている。
それはもちろん、「一年」を境にして自分の身分が刻々と変化しているからでもあるのだろうけれど、
同時にまた日常を通して自分の身におこっている変化が、
具体的な形を伴って現れる(ように見える)のが、「一年」というスパンであるようにも思えるのだ。
そうやって考えると、この一年一年、自分は(外見を除いて)
もはや原型をとどめないぐらいに変わり続けてきているし、
おそらくこれからも、「一年」「一年」全く違う立場に身を置きながら、
変化し続けていくのだろう、と思った。


・・・さて、それではこの「変化」は、いったいどこで止まるのだろうか?
止まった地点が「大人」ということなのだろうか?
あるいは、止まらないのだろうか?
そのへんは、よくわからない。
また、その「変化」が、良いものなのかというと、
それもよくわからない。苦しい部分も相当にある。
けれど、それでも、自分の身体を痛めつけながら変化していく自分を
どこかしら楽しんでいる自分もいる。
そうじゃなければ、これだけ毎年毎年自分のいる状況を変化させたりは、しないだろう。
苦しい、楽しみ。
安定はいまだ見えず、ただ転がり続けるのみ。
結果として、相変わらず自分の手の中には、何も残らない。変化。
「人間であることのくるしみをくるしみとしながらも、
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽」
という、高橋悠治の言葉は、これと関係があるのか、ないのか。
はて、さて。


「肉体に支配されているということが、そのまますなわち生きていることなのだ」
という、飴屋法水の言葉に、深い共感を覚えた。
これもまた、上のようなことと、関係があるのか、ないのか。
考えてみよう。