隣人

基本的に家で音楽を聴くときはヘッドホン否定派だったんだが、
最近ヘッドホンで聴くのもそれはそれで良い場合もあるんじゃないか、と思い始めた。
もちろん音楽が身体全体に響いていく感じはないけれど、
目をつぶって、耳にじっと手を当てて聴いているときのあの閉塞感、というのか、
完全に音楽以外の何者にも侵入されていない閉じた世界、は、
それはそれで気持ちいい。(音楽の内容にもよるけど)


最近ライブもレイブも行ってない。禁断症状が・・・

(自分よりも)

下だけをいろいろ見ていても、進歩は無い。
けれど、上だけをいろいろ見ていても、
上というのは往々にして専門性が高くなっているものだから、
それぞれが全く違う立場に立っていることが多く、
結果として自分がどこに進むかという指針にはならない。


見ているだけなら、面白いんだけどね。
自分が絡んでくると、どうしようもなくなってしまうのです。






そろそろ、目先にあるものを追い続けるのを止めて、
落ち着いた方が良いのか、という気持ちもあるのだけれど。
どこで止めるか、というのが問題ではある。

ひととせ

自分の中で、「一年」というのは、いろいろな意味でひとつの区切りになっている、と、感じた。
考えてみればここ数年、具体的に言うと高校二年生以降、
一年一年が全く違った重みと全く違った意味を持って過ぎていっている。
それはもちろん、「一年」を境にして自分の身分が刻々と変化しているからでもあるのだろうけれど、
同時にまた日常を通して自分の身におこっている変化が、
具体的な形を伴って現れる(ように見える)のが、「一年」というスパンであるようにも思えるのだ。
そうやって考えると、この一年一年、自分は(外見を除いて)
もはや原型をとどめないぐらいに変わり続けてきているし、
おそらくこれからも、「一年」「一年」全く違う立場に身を置きながら、
変化し続けていくのだろう、と思った。


・・・さて、それではこの「変化」は、いったいどこで止まるのだろうか?
止まった地点が「大人」ということなのだろうか?
あるいは、止まらないのだろうか?
そのへんは、よくわからない。
また、その「変化」が、良いものなのかというと、
それもよくわからない。苦しい部分も相当にある。
けれど、それでも、自分の身体を痛めつけながら変化していく自分を
どこかしら楽しんでいる自分もいる。
そうじゃなければ、これだけ毎年毎年自分のいる状況を変化させたりは、しないだろう。
苦しい、楽しみ。
安定はいまだ見えず、ただ転がり続けるのみ。
結果として、相変わらず自分の手の中には、何も残らない。変化。
「人間であることのくるしみをくるしみとしながらも、
くるしみがそのままでそこからの解放でもあるような音楽」
という、高橋悠治の言葉は、これと関係があるのか、ないのか。
はて、さて。


「肉体に支配されているということが、そのまますなわち生きていることなのだ」
という、飴屋法水の言葉に、深い共感を覚えた。
これもまた、上のようなことと、関係があるのか、ないのか。
考えてみよう。

いまやっていること

普段テレビをまったく見ない自分が、
珍しくずいぶん前から見ている(といっても「毎週欠かさず」ではないのだが)
テレビ番組がある。
松紳」という、深夜にやっている番組で、
なんということはないただ松本人志島田紳介がただひたすらにしゃべっているというだけの番組なのだが、
これがしかし面白い。
無駄なものがまったくない分、飲み会とかで直に人としゃべっているときと同じような面白さがある。
結構こういう面白さというものは普遍的なようで、この番組も何のかざりっけも無い番組なのにも関わらず
ずっと続いている。
やっているとついつい見てしまう。学ぶものは多い。
人と話すことは楽しい。しかし最近あまり交友関係が広がる気配はない・・・

今日は山岳部で飲み会だった。山岳部の顧問を務めている先生
(京大教授:京大山岳部OB)におごってもらった。
先生の話やほかのOBの話を聞いていると非常に面白い。
彼らにとって、山岳部というものがどれほど人生に影響を与えたか、
実際今にいたるまでそれは尾を引いているのだが、
それがよく伝わってくる。にんげんのいきかた。
しかし、山岳部一筋に打ち込むのではなくて、
旅行と音楽の二軸を中心に新しい領域に踏み込んでみたい、という欲望もある・・・
どうするべきなのだろうか。
とりあえず電子ピアノを買うか・・・シンセサイザーぐらいでもいいんだけどさ、
とりあえず音取りできれば寮のピアノでも弾けるから。

かんがえることはいろいろ。

めも

日常生活の、整備。
自分の生活のどこになにを、どうやって配置するのか。
なんで自分が今ここにいるのか。ここでは何が出来て、何が出来ないのか。
出来ないことの代わりに出来ることは何か。
もう少し、ちゃんと考えながら、目の前の作業をひとつひとつもつれたひもをほどくようにこなしていかないと。
作業の効率っていうのは、人生および生活にとって相当にクリティカルな問題だと思う。