さて。
3月も残すところあと3日。
自分の生活もかなりドラスティックに変化するし、
いろんな意味で「一区切り」ついた気がするので、
この日記も、いままでのように、自分が接した音楽を逐一記していったり、
といった方向は、ここで終止符を打つことにした。
このあとこのブログがどうなるかはわからない。
書きたいことがあれば書くだろうし、なければ書かないかもしれない。
それはまぁ「あたらしいせいかつ」がどのように構成されるかによって変わってくるだろうと思う。
絶望と妥協と期待と不安の中で、4月、京都に旅立ちます。
それではまた。
PIL
ジョン・ライドンの音楽的センスっていうのはやっぱり独特の鋭さがあって、
あるもの・対象を形造ろうとしてだんだんとそれが壊れていき
原型をとどめているんだかいないんだかわからないギリギリのところまでいって、
結果として他の誰にも真似のできない奇妙な、しかし強い主張を持った、音楽が出来上がる。
ロックの枠組みからこんな人間が出てきたことがもう信じられない。
セックス・ピストルズの言動やパフォーマンスはほとんどが
或るプロデューサーの演出によっていたというのが今はもう定説になっているけれど、
それでもやはり、人々があそこまで熱狂したのには、
芯から壊れた人間(シド・ヴィシャス)と、芯から壊れた音楽的センスを持った男(ライドン)の、
カオスなコラボレーションによるものだったのではないか。
しかし、今日グレイトフル・デッドを久しぶりに聞き直していて思ったのだけれど、
そもそも自分がテクノ・エレクトロニカやフリー・ジャズ、そしてジャーマン・ロックを
きちんと聴けるようになったのは、デッドの音楽で「音の聴き方」を学んだのによるところが大きい。
カントリーの代表みたいなイメージのあるデッドとテクノなんかどう繋がるんだ、と思う人もいるかもしれないけれど、
彼らの(特にライブの時の)音の作り方、そして聴衆への聴かせ方、というのは、
深く音自身と対峙せざるを得ないようなものである。
響き、うなり、リズム、色、声。ひとつひとつの音とその連繋。
グルーヴ。
音そのものに深く耳を傾けて、そしてその中に積極的に身をたゆたわせなければならない。
そういう「音」の聴き方、というのが理解できないと、
ジャーマン・ロックなんてほとんどわけがわからない気がする。
類似性といえば、デッドのライブに集まってたヒッピー達とか、
今のレイヴでドラッグ決めてラリってる奴らと同じなんじゃないか。
のんたいとる
一日一〜二回の coffee break には、やっぱりPCをつけてしまう、そんな自分。
「E2-E4」に対するマニュエル・ゲッチングのコメント
(たった一時間でレコーディングされたという事実に続けて)
「あれはダンス・ミュージックを意識したわけではなく、ただ単に最高にうまくいった瞬間、そういったものだ」
『ただ単に最高にうまくいった瞬間』・・・これほど適切にあのアルバムを言い表している言葉はない。